おおむらさきの日記

読書と映画、生活いろいろ日記

【読書】『呪いの言葉の解きかた』/上西充子

『呪いの言葉の解きかた』上西充子 晶文社 2019年5月25日刊行

 

 

今さらですが読みました。

 

著者の上西充子先生はご飯論法という論法のネーミングのきっかけとなった人。
これは2018年の新語大賞トップテンにもなったので、私でも知っていた。

一応かいておくと、

ご飯論法とは、「朝ご飯食べたか」という質問を受けた際、「ご飯」の意味を故意に狭い意味として解釈し、例えばパンは食べたにもかかわらず、「ご飯(白米)は食べていない」と答えるような、質問者側の意図をあえて曲解し、論点をずらし回答をはぐらかす手法のこと。(ウィキペディアより)


こういった、あえて要領を得ない・不誠実な回答をしてきて、それでも、

「嘘はついてませんよ!(=だって「白米」は食べてないですから!)」

というような場面というのは、残念ながら政治の局面で(ビジネスの場でも)散見される。
我々はそんな場面において、追究する側を見ているのもうんざりして(おそらく追究する側もうんざりしているが)、ニュース・議会・政治・・・そういった「そのもの」から目をそらしたくなる。
だからこそ、「ご飯論法」、この四文字の名前付けの効果はデカかったと感じている。ボケ続ける人に対して、

「それ、“ご飯論法”じゃないすか」と簡単にツッコめるようになったことの意義は大きいからだ。

不誠実な言葉や、不毛すぎるやりとりというのは、政権だけにとどまらない。実は世の中にたくさん存在していて、「呪いの言葉」として日常に隠れている。「呪いの言葉」のヤバいところは、すでに無意識のうちに私たちのなかに内面化して存在してしまっているということだ。だからそう「呪い」。

 

それ、「文句」じゃなくて「異議申し立て」~学生のケースから~

この本では、日常に潜み、内面化されてしまっている「呪いの言葉」を徹底的に指摘し、呪縛を解く試みが繰り返されている。
読んでいて感じるのは、そもそもの着眼点が「生活者」に寄り添っているということ。
例えば、アルバイト先に改善して欲しいことがあるーーつまり本当は言いたいことがある学生のケース。だがしかし、学生は「文句を言うな」「嫌なら辞めろ」という「呪いの言葉」に阻まれる。この「呪いの言葉」は、何もいつも、(例えばエリアマネージャーとかから)実際に面と向かって言われるのではなく、学生自身の内面から響いてくる言葉でもある。私たちはそんな、自分自身や世間の内面に潜む「呪いの言葉」に文字通り呪縛されていて、だから、「文句を言っちゃダメだよな」「嫌なら辞めるしかないか」と思ってしまう。
でも上西先生は


文句を言うと、職場の雰囲気を壊す」のではなく、すでに職場は壊れているのだ。壊れているのに、無理やり、個々人の努力でカバーするように強いられているのだ。(p34)

と指摘。

そして、
「問題解決に動くのは、緊張するし労力もかかる。不利益がかかるリスクもある」
とした上で、

しかし、問題に向き合って対処するという経験を積んでおいたほうが、あとあと自分のためにもならないだろうか。「嫌なら辞める」という対処法だけを取っていたら、アルバイトならまだよくても、就職後に問題に直面したときに、簡単に辞めるわけにもいかずに困らないだろうか。


とも指摘する。(ほんと、それな・・・・・・というため息が出る。)
そして、そもそも、上西先生はそれは「文句」ではない、と言っている。
「文句」ではない、「異議申し立て」なのだ、と。
言われてみればなんてことないのだが、不思議と響いた。「文句ではなくて『異議申し立て』なのか・・・・・・」と反芻することで、気づかずにからめとられていた呪いの言葉を認識した。「文句を言うな」の内面化パワーは実はデカかったと気づく。
「文句ではなくて異議申し立て」。言葉にしたらこれだけだが、新たな風が吹いた感覚。そっか、こうとも言えたんだ、こういう考えも合ったんだ、という確実な腹落ち感がそこにあった。
私にとってもかなり身近なこのケースは、「それまで(実は)縛られていた思考の枠組から抜け出す」ということを意識するきっかけになった。
まず、内面化された呪いの言葉を認識すること。そして別の言葉や概念によって解放されること。そして問題解決のために動くこと。


弱さは誰にでも存在している 大切なのはやりすごさないこと 

上にあげたように「呪いの言葉」は日常の生活レベルにまで、実は多々潜んでいるが、
私たちが「非日常」「対岸の火事」として分断しがちな痛ましい虐待事件にも「呪いの言葉」は存在している。
印象的だったのは、上西先生は、そんな痛ましい事件に対しても、「ありえないよね」「どうしてそんなことができるのか」というように問題を切断しないことである。むしろ、そのグラデーションの濃淡が違うだけで、私たちも同じような問題・困難に実は連続して存在しているということを指摘している。
上西先生は、子どもが犠牲となった3つの事件を取材したノンフィクションライター・杉山春の本を引用。

この3人に共通するのは、自分自身の苦しさやつらさを感じ、そこから主体的に助けを求めるのではなく、社会の規範に過剰なまでに身を沿わそうとして、力尽きてしまう痛ましい姿だ。本来なら到底実現できようもない目標を自ら設定し、達成しようとする(p103)


杉山春は、3人の親に共通するのは過剰な「生真面目さ」だと指摘。そんな事件を起こして「生真面目?」と思うかも知れない。
だが、本当は育てられそうにないのに「育てられません」と言えず、困難をそのまま自分ひとりで背負い込む状況、これに「生真面目さ」という言葉を与えたのは、なんというか目から鱗の感覚だと私は思った。
この状況もまた、「自己責任」という「呪いの言葉」の内面化によって声を上げられずに追い込まれている状況である。「できない」と言えずに、状況を打開できず、「仕方がない」と状況を背負い込んでいく・・・。

 

状況の打開はさらに困難になるが、それでも考えても苦しいだけだからと、見ないふりをしつつ、やりすごそうとしていく。実はそういう弱さは、誰でも多かれ少なかれ抱えているのではないか。(P112)

 

バイト先から、なんとか土曜も入れないか、なんとか日曜も入れないか、としきりにLINEで連絡が来るので、それを断るのが心理的にしんどくて引き受けてしまうという学生。給与の支払い額が不明瞭なのだけれど、辞めるとは怖くて言い出せず、続けるしかないと考える学生。交際相手が支配的で心理的に追い込まれるのだが別れたいと言い出すとどんな目にあうかわからないので、交際を続ける女性。高圧的な上司にどなられるのだが、なんとか辞めずに働き続けないと生活が破綻すると考える男性。
そんな例は、実は身近にいくらでもあるのではないか。そしてまた自分も同じように、何らかの困難を抱えつつ、それをやりすごしているのではないか。(p112)

 

きっつい。。身近すぎて、自分事すぎて、きっついわ。。
きっついけど、やはり、自分の困難をやりすごさないことは大切なことだ、と気づかされる。考えて、見て、なんとか自分のつらい状況を打開しないと、と。
「実はそういう弱さは誰でも多かれ少なかれ抱えているのではないか」というのも重要な指摘で、ニュースを賑わせるような虐待事件の親たちの問題は、実は自分にも連続して存在しているのだと認識し続けたい。そして忘れてはならない大切なことは、自分たちに支援や治療を受ける権利があるということである。「甘え」や「自己責任」という呪いの言葉に縛られず、適切な支援を要求できるということ。

 

「デモで何が変わるのか」も呪いの言葉

要求の話でいうと、デモの話もめっちゃ納得だった。「デモで社会は変わらない」というのも実は呪いの言葉、という。

上西先生は柄谷行人の言葉を引用。

デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。
なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるからです。(P143)

私自身、デモで何が変わるのか、と思っていた。
デモに行くような同世代の子もいて、その勇気と行動力を内心うらやましいと感じつつも、それでも「デモで社会は変わらない」と。だが、それ自体も「呪いの言葉」だったのだ。
デモも「異議申し立て」の行為なのである。バイト先で、改善案や労働者の権利を主張するのも「異議申し立て」の行為であるのと同様に、連続していて、あるべき社会を求める行為だった。デモは国民主権の象徴的な行動なのである。なんか、言われてみればその通りなんだけど、また新たな視点を手に入れた感じがする。

 

今こそ、読もう

いよいよ参議院選挙の様相が本格化している今日この頃。このタイミングで、この本を読めたのはよかった。

読みやすい本なのでぜひ色々な人に読んで欲しい、そして「呪いの言葉」から解き放たれて欲しいと思う。