おおむらさきの日記

読書と映画、生活いろいろ日記

【映画】東京オアシス(2011) 何も起こらないけど不思議と記憶に残る

東京オアシス』(2011)観たよ日記です。

 

 



何も起こらない映画。眠くなるし実際寝た。レンタルだったので、気を取り直してもう一回観たけれども。

だが、寝たからと言ってつまらない映画というわけではないと思います。

 

これは観る人を選ぶ映画というよりは、観るタイミングを選ぶ映画と言えるのではないだろうかと。

 

東京オアシス」と言う映画タイトルにあるように、「東京」の冠がつくわけですが、田舎者(失礼)が上京してきた地"TOKYO"で疲れ果ててる、みたいな映画ではないし、かといって、TOKYOのキラキラ(あるいはギラギラ)を描いているわけではない。

過度に高層ビルを映すような演出もない。

東京育ちの自分としては、そういった演出に、なんだか違和感を感じたり、居心地が悪くなる部分があったりしたので、

個人的には、地に足のついた感のある、

なかなかニュートラルな東京の演出をしている映画だと思いました。

(キャッチコピーは「見つめてみよう。きっと誰かがみえてくる。」だそうです。東京とその街に暮らす人々を静かに見つめるスローライフ・ムービーとのことで、終始ゆったり、こじんまりとしています。)


実際、映画冒頭は下道の「杉並区」の道路標識が映し出されるところからスタートして「ガスト」と「ミニストップ」の電光看板もカメラで拾いながらの夜間ドライブの映像。

普通に田舎っぽさを残しているように感じます。

「東京!!!」「TOKYO!!!」と勢いよく言うと、なにか巨大な概念を感じるかもしれませんが、たとえば、杉並区、葛飾区、世田谷区…などと分解した視線を向けると、ただの生活圏なんだよなぁと感じる気がします。(この感覚、伝わってますかね?)

 

映像の話に戻ります。

で、そこからすぐに新宿に入って「大都会東京」ぽさを映すのですが、またすぐ切り替わり、清潔だがひとけも車通りも少なさそうな道路に。
加瀬亮がコンビニのなかをウロウロしながら結局買ったものはチオビタドリンクとガムとガリガリ君?トータル350円。

なんであんなふうにコンビニの中を徘徊(?)した映像にしたんですかね?いや、私もあんな風に買うモノを選ぶのでわかるんですけど。

コンビニって無機質さとも結びつくけど、仕事帰りや疲れている時には、それこそオアシスとしての役割を果たしてくれているような気もします。

で、

チオビタは、最近栄養ドリンクに目が向くようになってきたので、加瀬亮が買う気持ちもふんわりわかる気がする。

ガムは眠気覚ましかな?

ガリガリ君で、コスパ良くスッキリシャッキリしたかったのかなぁ?

 

…とかいちいち考えてしまいました。見終わったあと、ふとね。

 

重要なシーン、

ガリガリ君を捨てながらダッシュしての回転レシーブ」はホント鮮やかで2回目に観ると結構笑えました。

加瀬亮は「何笑ってんすか」と怒ってましたが、あそこで「回転レシーブした!笑笑」と大笑いした小林聡美はあながち間違ってない気がします。(?)
あとはサービスエリアのシーン。

きつねうどんが美味しそうでしたね。

フードコーディネーターは飯島奈美さんということで納得、こんな何気ない感じの食べ物にもほんのり美意識が香っているような感じがあり、印象に残りました。

ほんっとにシンプルなうどんなんですが、なんであんな沁みるような「うまそう…」という感情を抱かさせるのでしょうか?


あと、あどけなさが残る感じの若かりし黒木華さんも出ていました。動物園に面接に来た浪人生のお話。こちらのお話も、なんか良かったです。なんか、良かった。

 

癒されるか?と聞かれれば癒される系の映画でもない気がします。ただ、「何も起こらない」からといって「記憶にも残らない」ような映画ではなかったなと思いました。

この映画のテンポとか、

1人、部屋でひっそり観たあの感じとかも含めて、ふとしたときに思い出すような、そんな記憶に残る映画だと思います。

何も考えずにただ世界観を浴びる、そんな映画体験に、なんだかんだで癒されていたみたいです。

【韓国名作ドラマ】砂時計(モレシゲ)全24話を観終わった (ただひたすらペクジェヒの話)

先日、砂時計(モレシゲ)全24話観終わりました。

 

 



光州事件も描く、韓国の現代史をベースにしたドラマ。骨太なテーマを扱っているが、恋愛要素、メロドラマ要素もあってめちゃくちゃ面白かった。

なんといっても主人公の女の子を守るボディガード役!!イジョンジェ演じるペク・ジェヒにどはまり。彼が出てこなかったらこのドラマをもしかしたら途中離脱していたかも知れない。韓国ドラマの長さにまだ慣れていないのでね。
3話から彼が登場して以降、圧倒的に面白くなった。

ドラマ視聴がやめられないとまらない。「彼、次いつ出てくるんだ?」「彼が出てくる場面はよプリーズ!」という感じで。
どうやら新人だったから、台詞を少なくされたようなのだが、返ってそれがイジョンジェの持つ天然性のカリスマオーラや色気を引き立てていたと思う。寡黙に見守りひたすら一途にお嬢様を守るジェヒにもう胸キュンどころの騒ぎではない。本来は主人公の女の子とその友人たちである男ふたりの三角関係や、その三人の成長と挫折がテーマの物語なのだが、もうわたしはそのトライアングルよりペクジェヒなのである。
冷静そうな人の「冷静」の源泉が「情熱」だと知るときってノックアウトされるよね。

イジョンジェ演じるペクジェヒはお嬢様を守るため全てを賭けているわけです。普段はマンガに出てきそうな冷静なボディガードなのに実はお嬢様に対してめちゃくちゃパッションがあるという。

いつしかペクジェヒにドはまり。若かりし当時のイジョンジェの画像を検索・保存しまくる自分がいた。
正直、当時のイジョンジェは昔の髪型のせいなのか画質の悪さのせいなのか「すんごくイケメン」の類いには入らないような容貌だと思う、目もぱっちりしていないし重い一重まぶただし。

そう考えると主役であるパク・テスの俳優さんの容貌はザ・スター俳優という感じ。だけど、イジョンジェは魔境である。演じれば演じるほど彼の魅力が放出されていく感じの容貌。ぱっちりしてれば良いってもんじゃないんだよな!と、重い一重まぶたの私も勝手に胸熱、一人うなずく。(?)f:id:ohmurasaki_miyabi:20220921031252j:image


イジョンジェはネトフリのイカゲームで世界的にも有名俳優に。でも私はイカゲームを見るのが怖くてずっと視聴を先延ばしにするでしょうね。だってペクジェヒ役だったイジョンジェをずっと目に焼き付けておきたいから・・・。


脇役のペクジェヒにこんなにも惹かれる自分、おかしいのかな?って思ったけど放送当時の韓国においてもペクジェヒは大人気だったらしい。やっぱりそうだよね!と我が意を得たりな高揚。つまりかっこいい男性に庇護されたいという欲求である。危険な目に合ったときに身を挺して守られたい。一途に大切にされたい。ストーカー的な粘着性はそこには一切なく、むしろ透明で清らかな愛。ん?もしかしてこれって「父性」ってやつ・・・??ちがうか、?これこそが愛??混乱。

そういえば(話はまた脱線するけど)、昔々、キリタニ監督の『GOEMON』を映画館で観たことがあるのだが、茶々を一途に守るゴエモンに小学生だった私は超心惹かれたのだった。

 

 


福田麻由子が茶々の少女期を演じていて、それをお守りする少年ゴエモンの男の子がまあかっこよくて。いまはその男の子の名前を失念してしまったが、小学生女子の私は当時その男の子の名前をめっちゃ検索していた覚えがある。


で、10何年たって、ついに砂時計関連の韓国語のサイトを翻訳しながら、永久に不足しているペクジェヒ要素を情報で埋めようとしている自分・・・。やってること全然変わってないやないか。(ああこうやって韓国語学習者が、韓ドラファンが連綿と生まれていくわけですね・・・。)
ペクジェヒは話の本筋ではなく傍流なのに、気づけばその傍流をひた走っている自分・・・。うっわこれが韓ドラのやり方か!本筋だけじゃなく傍流も楽しませてしまうなんて!(?)

傍流も誰かの本筋にさせてしまうなんて!(?)

そしてもちろん本筋もおもしろいだなんて!
ああ、マジでペクジェヒみたいな、初対面から不思議とどんどんイケメン度が増して見えるようなイケメンと出会いたいですね。

https://japanese.korea.net/NewsFocus/HonoraryReporters/view?articleId=204761&pageIndex=1

 

イカゲームは当分観ません(ペクジェヒを心に留めておきたいので)(観れません)

 

【読書】『呪いの言葉の解きかた』/上西充子

『呪いの言葉の解きかた』上西充子 晶文社 2019年5月25日刊行

 

 

今さらですが読みました。

 

著者の上西充子先生はご飯論法という論法のネーミングのきっかけとなった人。
これは2018年の新語大賞トップテンにもなったので、私でも知っていた。

一応かいておくと、

ご飯論法とは、「朝ご飯食べたか」という質問を受けた際、「ご飯」の意味を故意に狭い意味として解釈し、例えばパンは食べたにもかかわらず、「ご飯(白米)は食べていない」と答えるような、質問者側の意図をあえて曲解し、論点をずらし回答をはぐらかす手法のこと。(ウィキペディアより)


こういった、あえて要領を得ない・不誠実な回答をしてきて、それでも、

「嘘はついてませんよ!(=だって「白米」は食べてないですから!)」

というような場面というのは、残念ながら政治の局面で(ビジネスの場でも)散見される。
我々はそんな場面において、追究する側を見ているのもうんざりして(おそらく追究する側もうんざりしているが)、ニュース・議会・政治・・・そういった「そのもの」から目をそらしたくなる。
だからこそ、「ご飯論法」、この四文字の名前付けの効果はデカかったと感じている。ボケ続ける人に対して、

「それ、“ご飯論法”じゃないすか」と簡単にツッコめるようになったことの意義は大きいからだ。

不誠実な言葉や、不毛すぎるやりとりというのは、政権だけにとどまらない。実は世の中にたくさん存在していて、「呪いの言葉」として日常に隠れている。「呪いの言葉」のヤバいところは、すでに無意識のうちに私たちのなかに内面化して存在してしまっているということだ。だからそう「呪い」。

 

それ、「文句」じゃなくて「異議申し立て」~学生のケースから~

この本では、日常に潜み、内面化されてしまっている「呪いの言葉」を徹底的に指摘し、呪縛を解く試みが繰り返されている。
読んでいて感じるのは、そもそもの着眼点が「生活者」に寄り添っているということ。
例えば、アルバイト先に改善して欲しいことがあるーーつまり本当は言いたいことがある学生のケース。だがしかし、学生は「文句を言うな」「嫌なら辞めろ」という「呪いの言葉」に阻まれる。この「呪いの言葉」は、何もいつも、(例えばエリアマネージャーとかから)実際に面と向かって言われるのではなく、学生自身の内面から響いてくる言葉でもある。私たちはそんな、自分自身や世間の内面に潜む「呪いの言葉」に文字通り呪縛されていて、だから、「文句を言っちゃダメだよな」「嫌なら辞めるしかないか」と思ってしまう。
でも上西先生は


文句を言うと、職場の雰囲気を壊す」のではなく、すでに職場は壊れているのだ。壊れているのに、無理やり、個々人の努力でカバーするように強いられているのだ。(p34)

と指摘。

そして、
「問題解決に動くのは、緊張するし労力もかかる。不利益がかかるリスクもある」
とした上で、

しかし、問題に向き合って対処するという経験を積んでおいたほうが、あとあと自分のためにもならないだろうか。「嫌なら辞める」という対処法だけを取っていたら、アルバイトならまだよくても、就職後に問題に直面したときに、簡単に辞めるわけにもいかずに困らないだろうか。


とも指摘する。(ほんと、それな・・・・・・というため息が出る。)
そして、そもそも、上西先生はそれは「文句」ではない、と言っている。
「文句」ではない、「異議申し立て」なのだ、と。
言われてみればなんてことないのだが、不思議と響いた。「文句ではなくて『異議申し立て』なのか・・・・・・」と反芻することで、気づかずにからめとられていた呪いの言葉を認識した。「文句を言うな」の内面化パワーは実はデカかったと気づく。
「文句ではなくて異議申し立て」。言葉にしたらこれだけだが、新たな風が吹いた感覚。そっか、こうとも言えたんだ、こういう考えも合ったんだ、という確実な腹落ち感がそこにあった。
私にとってもかなり身近なこのケースは、「それまで(実は)縛られていた思考の枠組から抜け出す」ということを意識するきっかけになった。
まず、内面化された呪いの言葉を認識すること。そして別の言葉や概念によって解放されること。そして問題解決のために動くこと。


弱さは誰にでも存在している 大切なのはやりすごさないこと 

上にあげたように「呪いの言葉」は日常の生活レベルにまで、実は多々潜んでいるが、
私たちが「非日常」「対岸の火事」として分断しがちな痛ましい虐待事件にも「呪いの言葉」は存在している。
印象的だったのは、上西先生は、そんな痛ましい事件に対しても、「ありえないよね」「どうしてそんなことができるのか」というように問題を切断しないことである。むしろ、そのグラデーションの濃淡が違うだけで、私たちも同じような問題・困難に実は連続して存在しているということを指摘している。
上西先生は、子どもが犠牲となった3つの事件を取材したノンフィクションライター・杉山春の本を引用。

この3人に共通するのは、自分自身の苦しさやつらさを感じ、そこから主体的に助けを求めるのではなく、社会の規範に過剰なまでに身を沿わそうとして、力尽きてしまう痛ましい姿だ。本来なら到底実現できようもない目標を自ら設定し、達成しようとする(p103)


杉山春は、3人の親に共通するのは過剰な「生真面目さ」だと指摘。そんな事件を起こして「生真面目?」と思うかも知れない。
だが、本当は育てられそうにないのに「育てられません」と言えず、困難をそのまま自分ひとりで背負い込む状況、これに「生真面目さ」という言葉を与えたのは、なんというか目から鱗の感覚だと私は思った。
この状況もまた、「自己責任」という「呪いの言葉」の内面化によって声を上げられずに追い込まれている状況である。「できない」と言えずに、状況を打開できず、「仕方がない」と状況を背負い込んでいく・・・。

 

状況の打開はさらに困難になるが、それでも考えても苦しいだけだからと、見ないふりをしつつ、やりすごそうとしていく。実はそういう弱さは、誰でも多かれ少なかれ抱えているのではないか。(P112)

 

バイト先から、なんとか土曜も入れないか、なんとか日曜も入れないか、としきりにLINEで連絡が来るので、それを断るのが心理的にしんどくて引き受けてしまうという学生。給与の支払い額が不明瞭なのだけれど、辞めるとは怖くて言い出せず、続けるしかないと考える学生。交際相手が支配的で心理的に追い込まれるのだが別れたいと言い出すとどんな目にあうかわからないので、交際を続ける女性。高圧的な上司にどなられるのだが、なんとか辞めずに働き続けないと生活が破綻すると考える男性。
そんな例は、実は身近にいくらでもあるのではないか。そしてまた自分も同じように、何らかの困難を抱えつつ、それをやりすごしているのではないか。(p112)

 

きっつい。。身近すぎて、自分事すぎて、きっついわ。。
きっついけど、やはり、自分の困難をやりすごさないことは大切なことだ、と気づかされる。考えて、見て、なんとか自分のつらい状況を打開しないと、と。
「実はそういう弱さは誰でも多かれ少なかれ抱えているのではないか」というのも重要な指摘で、ニュースを賑わせるような虐待事件の親たちの問題は、実は自分にも連続して存在しているのだと認識し続けたい。そして忘れてはならない大切なことは、自分たちに支援や治療を受ける権利があるということである。「甘え」や「自己責任」という呪いの言葉に縛られず、適切な支援を要求できるということ。

 

「デモで何が変わるのか」も呪いの言葉

要求の話でいうと、デモの話もめっちゃ納得だった。「デモで社会は変わらない」というのも実は呪いの言葉、という。

上西先生は柄谷行人の言葉を引用。

デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。
なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるからです。(P143)

私自身、デモで何が変わるのか、と思っていた。
デモに行くような同世代の子もいて、その勇気と行動力を内心うらやましいと感じつつも、それでも「デモで社会は変わらない」と。だが、それ自体も「呪いの言葉」だったのだ。
デモも「異議申し立て」の行為なのである。バイト先で、改善案や労働者の権利を主張するのも「異議申し立て」の行為であるのと同様に、連続していて、あるべき社会を求める行為だった。デモは国民主権の象徴的な行動なのである。なんか、言われてみればその通りなんだけど、また新たな視点を手に入れた感じがする。

 

今こそ、読もう

いよいよ参議院選挙の様相が本格化している今日この頃。このタイミングで、この本を読めたのはよかった。

読みやすい本なのでぜひ色々な人に読んで欲しい、そして「呪いの言葉」から解き放たれて欲しいと思う。

【読書】『文化系女子という生き方』湯山玲子 

 

 

 

古本屋にて、「文化系女子という生き方」というタイトルの本を発見。湯山玲子さん著。2014年発行です。

 

読了して感じたのは、うーん、決して「文化系女子」の味方になってくれるわけでも肯定してくれるわけでもない本だなぁということ。

端的にいえば「教養」も楽しみつつ「モテ」も楽しめ、みたいな本です。

あと、

「間違った文化系女子に喝ッ!」と本著の紹介文にあるのですが、まあ、つまり、そういう本でもありました。喝を入れる、みたいなノリがちょっともうヤダヤダ・・・となる部分はあります。張本勲でもあるまいし。そもそも「間違った」って何よ、とも。


また、この本は全体的に、著者の、文化系女子に対する“イメージ”で語られているという印象も受けました。いってしまえば偏見です。

著者がその“イメージ”を形成し、この本で語られるまでに至った、実在の「文化系女子」達は分母が少なそう。著者周辺の人々のお話かな。まあ社会学調査でもないのでそれは自由なのですが。大和書房ってこんな感じの本たくさんありますし。


うん、だから、ちょっとそんな感じで、全体的にだいぶバイアスがかかっているかなという印象。批評でもないしといってエッセイでもないし、うーん。この本は著者周辺の文化系女子達に対するお気持ち表明本だったのかも?

 

結局、「恋愛至上主義」なのか?

 

さて、著者はどんな「文化系という生き方」を勧めているかというとリア充腐女子を両立させる」というもの。

文化系女子、すなわち非リア充(p254)」とした上で、「腐女子リア充は両立できるんですよ!」と説く。

 

 

「ここはひとつ、ファンタジーの王国の住人であることをやめずに、現実の「何の萌えどころもない男子」に対して、腐女子が言うところの「恋愛以外の感情」を自分の中に見出して、アプローチしてみてはいかがでしょう。」(p254)

 

この文章は結構興味深かった。

面白いと思ったし、まぁ、そうだよね、とも思いました。
大先輩からの「よりよく生きるためのヒント」でもあると受け取りつつ、とはいえ、何というのだろう、だからこそ「まっとうですね」とも思い、距離感も感じてしまった。


大学の社会学の先生が授業中に、今の日本の状況を説明したあとで「というわけでね、皆さんはまずはね、就活をね、頑張ってくださいね。笑」と言ったときのなんとも形容できなかった感情を持ったときの瞬間が思い起こされた。
「はい、正しいと思います、でも、うーん・・・」みたいな・・・。未だになんか言語化できない。

文化系教養の世界で羽を伸ばしつつ、夢から覚めたら実生活でも人間と渡り合い、異性に対して自分から行動する・・・・・・。「何の萌えどころもない男子」に対して「恋愛以外の感情」を自分の中に見出してアプローチする……わかるようなわからないような…。

そもそも、文化系女子、という時点で女性性はずっとそこから剥がれないのです。「文化系人間」という大枠で話をしてもいいような気がするのですが、この本はfor女子。文化系女子というラベルを作られてしまった時点で「恋愛」からは抜け出せない仕組みになっているようです。2010年代っぽいと個人的に思います。

 

 

ともかく、なんか、湯山玲子さんのこの一文に、「ま、真っ当すぎる・・・」と思ってしまったのは自分だけ??

と思わずキョロキョロしてしまいそうに。そして「それは文化系女子じゃなくて、もうただのリア充なんよ!(CV:ノブ)」と思ってしまったのは自分だけでしょうか…?
私が「真っ当すぎる」と思うことを世の皆さんは「ナチュラル」に「両立」できてしまっているのでしょうか。
戸惑い反発しつつも大先輩の「喝」になんだかんだ動揺させられている自分。
とはいえ、こんな感じで、いわゆる「世間的に真っ当なんだろうな」ということを文章にされたものを読むと、王道だとされている生き方に対する理解が自分の中で一気に進むような感じはしました。それは発見というか収穫でもあったといえます。

 

2014年に書かれた本というのもあり、著者もかなりベテラン的な年齢の方というのもあり、「多様な生き方があるよね」「それでいいよね」という受容というよりは「やっぱり恋愛もする生き方の方が幸せじゃない?ね?」みたいな提案の圧は若干感じたかなぁ。
著者が自分や自分の生き方、自分の身につけてきた文化教養に自信があるが故の「両立のすすめ」。
まあそうなんだろうな、「両立」、素晴らしい言葉ですよね、と思いつつも「文化系」と「女子」が組み合わさって結局(いや案の定というか)、「現実を見ろ」的な言説と「実生活での恋愛」が取り沙汰されることには変わりないということに「??」と混乱する気持ちも正直なところある。
2014年はまだMETOO運動もなかったし、2022年の現在のようにアセク・アロマとかもここまで理解されてなかったし、まだ女性誌発祥みたいな恋愛本とかもたくさんあったし、そりゃ今読んだらちょっと受け入れられにくい部分もあるよね。今出版されるとしたら「文化系女子のここがいい」みたいな内容の本は出ると思う、こんな「喝」の方向性ではなく、良さを受容し、こんなにも世界が広がる、と愛でるような。

著者自身が「文化系なのにリア充というバイリンガルです(p91)」
とのことだから、恋愛至上主義時代を生き、文化教養も摂取してきた、そんなご自身の生き方を勧めている気持ちがベースにある本とも言えると思います。ってか、バイリンガルと形容するのね、とちょっと引っかかる。
まあ、その「バイリンガル」になかなかなれなくて、もがいたり、諦めたり、あるいは葛藤したりする女性が多いのが今の現状だとも思います。少なくとも私の感覚では今、恋愛をするのってちょっと難しい感じがする。恋愛の世界を掘り下げるより、文化系の世界を掘り下げる方が簡単だしやりやすいし楽しい、みたいな感覚はある。
私の中で、恋愛は「相撲」を想起させる。がっぷりとぶつかる感じ。一対一の勝負。
いまあえて相撲部に入りたいという子は多いだろうか?相撲より、もっと自分を成長させてくれて、仲間がいて、疲れなくて、楽しい部活はたくさんあるよね、選べるんだから選ぼうよ、そんな感じ。恋愛より楽しくてやりがいのあるエンタメは多様にある。〈エンタメ〉に〈仕事〉が入る人もいるでしょう。

 

タイトルに惹かれてこの本を手に取った2014年当時の「文化系女子」たちは読了してどう思ったのだろうかとちょっと気になるところではあります。「そのままの生き方で良いのよ」とは言ってくれなくてげんなりする人もいたんでしょうか。それとも、「恋愛も頑張らなくちゃ」と意気込んだ人もいたんでしょうか。(恋愛を頑張るって何?って感じだけど。)
2022年に読むとちょっと「ん?」と思うような部分もあるかなあと言うのが私の感想です。

 

あと、ちょっと気になったところ。著者は男と女のオタクの違いとして、女オタクは同好の士の中でマウンティングしない、男はする、と言っているのですが、いや・・・なんか、著者自身がめちゃくちゃマウンティングしているように見えます。笑
例えば、出会った「日本酒女子」に対して。
「日本酒は知っているかもしれないけれど、日本酒文化として通るはずの開高健も読んでなかった!知らなかった!話にならなかった!」みたいな。こういう描写は頻繁に出てきます。勝間和代さんに対しても「誰かが言ってた」として「一冊の本も読んでなさそう」みたいな唐突なディスりも・・・。自分のお眼鏡にかなわないとダメなのかしら?という印象は受けた。うーん、あとなんか、全体を通して、やや「名誉男性」っぽさを感じました。「文化系女子」達が「自分たちの王国」で誰にも迷惑をかけずに楽しんでいるところに「あなたたちは文化系女子ではない」「全然知識がたりない」「これとこれも履修せねば名乗る資格はない」と古参オタクの先輩として突然侵攻してくる感も受けたかな。かと思えば「開国しろ」とずっと言っている感じも。笑

 

 

あえてガチで読み込んで読書会したい本かも

 

こんだけ長くこの本についてのモヤモヤを書き連ねてきた私ですが、逆に言うと、この本は、わざわざ感想を書かせるような、それだけのエネルギーを出させる本だとも言えます。考えれば考えるほど、ちゃんと理解しようと思えば思うほど良くわからなくなりました。

読了後3ヶ月たった今でもたまに思い出して、はて?結局アレは何だったんだ?と思うので、思い切って書いてみた次第。

レンタルした映画に出てきた登場人物に思いがけずめちゃくちゃ胸がときめいてしばらく頭から離れなくなったときに、ふと、「これって私、いいんだろうか」と思う瞬間があったのです。冷静に考えてみて、良いも悪いも別にないのですが、架空の人物に胸を焦がす自分にどこか動揺し、「胸を焦がしたまま」ではいられなかったのです。つまり文化系の世界に入り込むのを防ごうとしているような自分もいたのです。それってこの本の影響かもと。「両立をすすめる」という、現実に即した、真っ当な、おそらく愛のあるススメは、人がその考えに明瞭に触れたとき、フィクションの世界に心奪われるのをやんわり阻止するだけの力があると思います。夢見る少女じゃいられない、ってやつです。それってとても現実的ですが、何かを得る代わりに何かもまた失っていると思うのです。

 

 

BL研究したい人が読んだらどう思うんだろ


長くなってしまいました。この本と同じく特にまとまりはない感想ですね。
いまではBL研究なども結構進んできて、文献もあるように感じますが、そんな学術研究的な本とは違って、とりあえず読みやすいので「文化系女子」系、を知るためのとっかかりには良いかもしれない、と思います。「文化系女子」に対する謎はどちらかというと深まるばかりでしたが・・・。
どこかのレビューで、おそらく企業の人が、文化系女子のペルソナを知るために本著を読んだ、よく知れて良かった、みたいなレビューがありました。私はそんな風にこの本のすべてをふむふむぅと受け入れたわけではないのですが、まぁとにかく2010年代の本として読んでみるのも悪くないかも知れないです。
BLに対する章もあったりするので、サブカル研究、BL研究している人にもサンプルのひとつとして興味深く読める本かも知れません。湯山玲子さんの本はまだこれしか読んだことがないので、他の本も読んでその世界を探ってみたいですね。

 

20代が『家族という病 下重暁子』を読んだ感想

幻冬舎新書『家族という病 下重暁子』を読んだ。(思えば幻冬舎というフラグ……)f:id:ohmurasaki_miyabi:20220214175813j:image

 

タイトルは秀逸だが筆者の「お気持ち表明」本だった

まず「家族という病」というタイトルは秀逸。人を惹きつけ、手に取らせる力がある。「写真入り年賀状は幸せの押し売り」というのとかも一定の人をスカッとさせてくれる刺激的な意見。結構みんな思ってるだろうしね。

私は他人の家族のエピソードを聞いたり読んだりするのが好きなのだが、軍人家族に生まれた著者のエピソードは興味深かった。陸軍将校だった著者の父のエピソードなど、濃厚で面白い。私にとっては戦中というのはもはや完全に日本史なのだが、1つの家族のエピソードを聞くことによって、遠かった日本史が近くに手触りを持って感じられるような気がした。

一方、読了して感じたのは、「私」と「その周り」で起こったこと・聞いたことの話を集めました、という本だなということ。
新書で出版されているが、社会学的な知見もないし、これを読んでも何か得られるものは特になかった。筆者のお気持ち表明の本だと思う。

60万部売れたベストセラーだと言うことで、何か新しい知見が得られるだろうかとちょっとワクワクし、「家族という病」というタイトルに惹かれて読み始めた者としては残念な結果に終わった。途中、私が抱いていた「新書」のスタンスと違うぞ…と思い、つい「新書」の定義を調べてしまった。(特に定義はないっぽい)

 

家族関係に悩んでいる人にとっては、家族社会学とか、なんなら純文学を読んでいた方が全然良いし、得られるものもあるだろうと感じた。

 

 

「ごもっとも」と思いつつも、まとまりがない

この本を批判する人に「家族という病」なんてとんでもない!というスタンスで批判する人もいるようだが、私は全然そうは思わなかった。

一つ一つはしごくまっとうで「ですよね」「ごもっとも」と思うような意見が多数ある。

以下にいくつか挙げてみる。

・家族団欒という幻想ではなく、1人ひとりの個人をとり戻すことが、ほんとうの家族を知る近道ではないのか。p17

・籍などと言う枠にとらわれず、「パートナー」という言い方は自由でいい。p71

・家族という閉ざされた関係ではなく、外に向かって開かれた家族でありたい。p71

・女性を登用し、しかも女性に子どもを産んでほしいと思うなら、社会環境を整えることが急務だ。p81

・子どもは何も自分のDNAを受け継いだ子でなければならないわけではない。(略)血などつながらなくとも、思いでつながっていれば十分ではないか。p84


などなど。

これらはほんとうにその通り、と同意する。
p71のような「なんで夫のことを主人と言うわけ?」と言った問いかけ(筆者は「つれあい」と呼んでいる)や、

p84のような「DNAにこだわるな。子どもは子ども。欧米同様に、養子をとったって良いではないか」という意見が、2015年の日本において、80代の女性から発出されたことの意義は大きかったのだろうと考える。

「家族」という空間は幻想であり、血がつながっているからといって過信してもたれかかったり、依存するのはグロテスクだし、悲劇の連鎖につながると思う。閉ざされた家族という空間を打破して、もっと外に開かれるべきというのもその通りだと思う。

私としては以上に挙げたことは「そうですよね」と同意する意見だが、80代の女性がいうのは結構「ラディカル」な意見として刺激的に受け止められるのだろうか。それが売れた理由なのかなあ?といった感想も抱く。

 

だからこそ残念なのは、これらの「ごもっとも」な意見がエッセンスとして散らばってしまっているように感じたこと。であるからなんとも噛み応えがないという印象。

これらの意見の前に、自分と知人のエピソードが盛り込まれ、それ故にこれらの重要なエッセンスがどうしても薄まってしまっているように感じた。

これはもう筆者というより編集者の責任なのかも知れない・・・とかぼんやり思った。

と、いうことで全体を通して、まとまっているな、とは思わず、筆者のお気持ち・感想が羅列されているという印象を受けた。

 

また、語り口はどこかエラそうで終始上から目線な印象も受けた。説教本でもある。だがまあ良い、年齢も年齢だし。一刀両断されたいと言うニーズもあるだろう。
それと、この本は「私」と「その周りの知人」のエピソードで構成されていると言うことははじめに述べたが、これがまたいちいち「ハイソサエティ」臭がプンプンしていて、それはちょっと読んでいてウンザリした。

 

まとめ・雑誌として読めば面白い

多分、これは雑誌である。

雑誌「特集・家族という病 責任編集・下重暁子」だったのである。
もう少し深掘りしてくれれば面白いのに、とか、新書ではなく文庫からエッセイ本として出せば良かったのでは?と思った、が、そこは幻冬舎であった……。きっと売れれば何でもいいのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

【読書】【読んだけど…幻冬舎よ】ハート型の雲

 

読了したけど「?」だった本を書いてみようと思う。「ハート型の雲」です。

 

芥川賞受賞作家・高橋三千綱さんの本は初めて。家族の本棚にあり、もらった本。年末整理のため読み始めた。
というわけで帯以外何も事前情報なしに読んだのだが…読んでいる最中にどこか違和感があった。小説のようで小説ではないというか…。全部読んだらスッキリするかなと思ったのだが、結局読了後も違和感のようなものが残った。

あれ、私は何を読んでいたのだろう…みたいな。

で、検索して気づく。
……これは「染めQテクノロジー」という会社ののほとんど社史のような小説だった。

登場人物描写についてなど、多少は装飾も入っているだろうが、ほとんど事実なのかなと思う。

創業者である菱木貞夫の生い立ちから、起業・転落、そして再生の様子を

妹である恵美子の目を通して描いている。

 

まず人物描写としては、兄妹の母の描写がかなりの「鬼婆」、というよりあまりにも情緒不安定な女性に描かれているのだが、その回収やそうなった背景の説明などが特にされなかったのは「小説」としては不完全燃焼な感じがした。

(読めばわかるのですがあまりにもキャラが濃いのでね汗)


また、物語といえばいかに親を乗り越えるかが主要テーマのひとつだと思っていたので、てっきりそういう展開もされるのかな〜と思い読み進めていたら特にそんなことはなく、和解もなく、ただただヤバい母親で終わる。(お母さま……子どもたちにこんな感じで描かれてますけど……?)

この母親の人物像が強烈なので、会社の起業、上昇、転落、再生のストーリーよりもそっちの方が印象に残ってしまった。笑

あと、妹の恵美子の良く言えば素直なお嬢様っぷり、悪く言えば何も知らない様子にもひたすらもどかしさを覚えた…笑

 

ちょっと言いたいこと

事実をベースにしたほぼ社史の物語だとわかって読んでいればふ〜ん、へ〜、なんなら、物語だからわかりやすくていいわ〜という感じの読書体験だったのだろうが、帯にも商品説明にもそんなこと書いていないし、デカデカと書いてあったのは
「アノ家は貧乏だからよ。貧乏すぎるからよ」
のセリフ。これ、読み終えた者としては「かなり違和感を感じた」と指摘したい。
これだけ見たら貧乏な家族のお話なのかな?と思うのではないだろうか。しかしこれは恵美子の母(例の鬼婆)が恵美子に結婚を取りやめるようヒスった場面のセリフ。
「貧乏すぎる」家なのは恵美子の結婚相手の家のことである。(しかもその結婚相手もなんだかんだで東大卒、そして都庁に勤める公務員なのである。)
(というか、この物語には本当に貧乏すぎる人など出てきません…。)

この物語の本質をな〜〜んにも捉えてない帯文

これに関しては、読後、なんでこの文を帯文に抜き出した?という疑問を抱いたし、「こういう売り出し方でいいのか?幻冬舎メディアコンサルティングさんよ!」という感想と(結構な)不信感を抱いた。
意図的なミスリード?”三丁目の夕日”的な郷愁を感じさせる物語だと思わせたかったか?多分ウチの家族もそれで買っちゃったのかな…。
それとも帯文抜き出した人がただ単にセンスがない?
つまらなかったとしても別にいいので、こういう騙すようなのはちょっとどうかと…。

…と思ったけど、そっかそっか幻冬舎メディアコンサルティングってそういう会社だった。


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はいはい…真っ当な仕事をしたまでだね。全て納得。

なんで家族が書店で手に取ったか。

なんでこんなに外見は立派そうなつくりなのに「小説として」は中身が伴っていないのか。

私のような素人にも「?」の気持ちを抱かせたのか。

全ては幻冬舎メディアコンサルティングによる戦略でした。

広告!っぽくせず、話題書!な物語にして大々的!にPR!してたらしいです。うーん。

まぁ、読後「?」と思って検索して、「株式会社染めQテクノロジー」の名前に初めて出会う私のような人も釣れたんだから、"メディアコンサルティング"としてはやっぱりお見事なのでしょう。(株)染めQも、社外顧客に「芥川賞作家がうちをモデルに小説を書きました!」とか言って配れるわけですし。

 

ただね……書店での展開の仕方だけちょっとどうにかならないものかな。とはちょっと言いたいです。

棚ジャック!じゃないんだよ。

話題書として!じゃないんだよ。

出版社がそうすることで、なんか、

書店に対する信頼が薄れていきます

読書好きは、書店をウロウロして「今日もどんな新しい物語に出会えるかな〜」とワクワクを探して、「おっ、これが今の話題書なのか〜単行本でちょっと高いけど買おうかな〜」とか楽しんでるんですよ。まさかつくられた話題書とは知らずに。

せめて、

「社史」なら社史ですってちゃんと書いて、

貧しい人たちの「物語」じゃないです!ってちゃんと書いて「棚ジャック」してほしい。

あと帯文で騙そうとしないでくれ。

 

 

 

おすすめポイント

いろいろ書きましたが、芥川賞作家・高橋三千綱さんが一生懸命書いた本です。一応、おすすめポイントもあげておきます。 

この本で描かれているのは日本経済が列島改造論〜バブル期〜そしてバブル崩壊…と劇的に変化を遂げていく昭和から平成の様子。

その辺りは帯の文の通り「生々しく」感じられて面白いかもしれない。また、

・「株式会社染めQテクノロジー」の今に至るまでの歴史が知りたい人
・社長/専務(兄妹のモデル)を知りたい人
・社長の転んでも立ち上がるスピリットに励まされたい人
にはおすすめです。

 

【読書】面白南極料理人

 

 

堺雅人主演の映画(2009)を観てこちらも読んでみた。
読んでみてまず思ったのは、映画の方は万人受けするようなつくりだな(良い意味で)というのと、これを原作に上手いこと起承転結の物語をつくったなということ。

原作の本著は著者が1996-1998年の間に南極地域観測隊に参加し、ドーム基地での越冬の日々を描いたもの。”令和”に読む読者は「だいぶ昔」の話であるということと「男9人」で越冬する話ということは頭に入れておいても良さそう。笑 
というのも結構男くさいし、ジェンダー観ももちろんその時代のものなので…(丁寧な言葉遣いをするドクターを「とはいえ彼はオカマじゃないんですよ!」みたいに何回か言及する描写、次の越冬隊に女性がいると知って「いろいろ大丈夫なのか?よっぽどのブスなのだろうか」とかいちいち言及する描写がある)


別にポリコレな方でもないのだが、さすがに令和の現代ではちょいと引っ掛かるなぁみたいなところもあったのが正直な感想。

それも含めてかなり赤裸々に書いたんでしょう。全体的にユーモラスでとても面白いエッセイです。

でももちろんこの主題はそこではなくて、南極大陸というウイルスも存在しない極限の場所で人間たちが一年以上過ごすということ。男9人は料理人の著者をはじめ、それぞれが各分野のプロフェッショナル。

ストレス溜めたり、時に爆発させたりしながらも南極大陸で任務を遂行していく。その傍らにあって皆を大きく支えているのが「料理」。
食べないと死ぬという意味で不可欠なものでもあるのだが、何もない南極大陸においては料理は大いなる「エンタメ」でもある。それぞれの誕生日を盛大に祝ったり、冬至祭を楽しんだり、著者の料理人だけでなく他の隊員も料理を作り出す描写が多々ある。料理は息抜きでもあり、人間間の交流のためのツールでもあったんだろうなと思う。
マジで食材が豪華でビビりますが笑(この辺も赤裸々)、そりゃそうなるよなぁとも思います。料理はヘルスケアでもあるし同時にメンタルケアに大きく寄与するとも思うので。南極大陸なら尚更。美味しそうだしもちろんお金はかからないしで羨ましいです。

 

昭和基地は都会だ!とびっくりするドーム基地隊員、というような描写もあり、その辺りの違いも興味深かった。

あとかなり余談ですが、髭モジャおもしろ写真&エピソード満載の隊員たちですが、ググるとみんな(当然)偉くなっていてちょっと笑えます。

寝る前の読書にぴったり。いい具合に刺激的で、視野を広げてくれる感じ。

日常生活、いろいろありますが、南極に想いを馳せることでちょっとだけ日常に彩りが加わって新鮮なものになる気がします。